『猫の妙術』は江戸時代に書かれた本で、猫と会話できる武士が鼠捕りの達人(達猫?)として知られる老猫との出会いを通じて、自分がこれまで身につけてきた武術(剣術)を見つめなおす……といったストーリーの剣術指南本です。

うん、なんかもう既におもろい。こんなポップな感じでいいんですかね。

剣術の極意を記した本と聞くとすごく重厚で厳かなものを想像するのですが本作は真逆。

「こんな軽いノリで進行していいんですか?」と聞きたくなるほどですが、比較的平和だった江戸時代中期には既に殺し合いとか命のやり取りに対する現実味が薄れていて、カッチリした剣術指南書を書いたところで平和に慣れた若いサムライ達は真面目に読んでくれなかったのかもしれません。

どうにかして若者に本を読ませようと苦心する大人の姿は今も昔も変わりませんね。

で、本作で老猫が語る内容を一言で表現するなら「剣禅一致の境地を目指しなさい」といった感じでしょうか。

相手に勝ちたい、恥をかきたくないといった邪念を抱いていると、かえって手足の進退が不自由になって負けてしまうぞという、よく見聞きする内容ではあります。いざ本番となったらもうそれ以上アレコレ考えても仕方ないのだから、自然に任せたほうが良い結果に繋がるというのは私も大いに納得するところです。

アレコレ物事を考えてはいけませんが、思考を止めようと努力するのもNG。

日常生活で実行するのは困難ですが、特別な状況(非日常)ではかえってその境地に近づきやすいのではないでしょうか。

私も空手の大会に出場したとき、有効打として機能した技を振り返ると、ほとんど何も考えず体が勝手に動いていたように思います。逆に頭で「ああしよう、こうしよう」と考える余裕があると、むしろ反応が遅れて負けてしまうわけです。

なので読み進めながら「ああ、あの時みたいな感じね」と納得感がすごくありました。頭が余計な口出しをしないほうが体は最適解を見つけやすいのだと思います。

つまり、一瞬のチャンスを掴むのは頭より体のほうが上手いんですね。

日ごろから努力を重ねているのであれば、いつも一緒に頑張ってきた自分の体を信じて任せて、頭は後方から見ているだけで良いと、そういうことだと思います。

無心になることさえできれば他の努力をしていなくても強くなれるかといえば、それはまた話が違います。無心の境地で発揮されるのは日ごろの鍛錬によって培ったものですから。

自分の本来の実力を100%引き出すためにあるのが無為自然の心であり明鏡止水の境地なわけですが、肝心の実力がショボかったら全部引き出したところでショボい結果にしかなりませんので。相手も無心、こちらも無心なら、勝つのはやっぱり体力や技量で勝るほうでしょう。だから日ごろの鍛錬あっての無心です。

それで勝てなければ仕方ありません。負けるべくして負けたのです。それもまた道理。それが自然なことだっただけなので、自分を責める必要もない……そこまではなかなか難しいですが、この境地を目指す価値は大いにありそうです。すごく生きやすそうだし。

武道・格闘技に限らず、その他のスポーツや仕事、日常生活でも同じことが言えるでしょうね。人生そのものに通ずる、ちょっとシュールな哲学書を皆さんもぜひ一度読んでみてはいかがでしょうか。