多くの人が偽善にネガティブなイメージを抱いている。しかしやらない善より、やる偽善の方がはるかに価値があるのは明らかだ。善い行いが仮に自己満足だったとしても、誰に迷惑をかけているわけでもない。むしろその行為は誰かを救っている。
そして最初は偽善であったとしても、それを繰り返すうちに本物の善へと昇華していく道筋が確実に存在すると考えている。
人間は社会的な動物であり他者との関係性の中で生きている。その中で私たちは常に自己の存在意義や価値を問い続けている。他人から認められたい、褒められたい、良い人だと思われたいという欲求は多かれ少なかれ誰もが持っているものだ。この欲求がしばしば「偽善」の原動力となることがある。
人前で困っている人を助ける行為には、周りの人から「良い人」と評価されたいという気持ちが働いていることも少なくない。あるいはSNSで社会貢献活動をアピールする行為もそうだ。本当に社会を良くしたいという思いがある一方で、フォロワーからの「いいね」や称賛を期待する気持ちがないとは言い切れない。
しかしそれが何だというのだろう。たとえ動機に自己顕示欲や承認欲求が含まれていたとしても、実際に困っている人が助けられ、社会がより良い方向へと向かうのであれば、それは紛れもない「善行」である。偽善の批判者は、その動機の不純さを指摘し、行動そのものの価値を貶めようとする。
しかし結果として生み出されたポジティブな影響を無視することはできない。水に飛び込んで溺れている人を助けた人がいたとして、その人が周りからヒーローだと思われたいという気持ちがゼロだったと断言できるだろうか。もしそうだとしてもその行動が人の命を救った事実は何一つ変わらないのだ。
偽善が本物の善へと変わる過程にはいくつかの要因が関係している。まず行動の繰り返しである。最初は打算的な気持ちから始めたことでも、何度も繰り返すうちにその行動自体が習慣化される。最初は「良い人だと思われたいから」ゴミ拾いを始めたとする。しかし毎週のようにゴミ拾いを続けるうちに街がきれいになることへの喜びや、地域の人々との交流から生まれる連帯感を実感するようになるだろう。すると最初の動機は薄れ、純粋に「街をきれいにしたい」「地域に貢献したい」という気持ちが芽生えてくるのだ。
次に他者からのフィードバックも重要な要素である。偽善的な行動であっても、それによって助けられた人々からの感謝の言葉や笑顔は、行動する側の心に大きな影響を与える。最初は打算的だったとしても実際に感謝される経験を積み重ねることで、他者を助けることの喜びや充足感を味わうようになる。このポジティブな感情は次の行動へのモチベーションとなり、より純粋な動機へと変化を促す。承認欲求を満たすことを目的としていた行動が、いつの間にか他者の幸福を願う行動へと変わっていく瞬間である。
さらに偽善的な行動がきっかけとなり、その人が社会問題や他者の苦しみに深く向き合うようになることもある。最初は表面的で浅い理解しかなかったとしても実際に慈善活動に携わることで、その背景にある複雑な問題や助けを必要としている人々の切実な状況を肌で感じるようになる。すると単なるパフォーマンスでは済まされない、より深い共感と責任感が生まれてくるのだ。それは知識としての理解を超え、心から他者の苦しみを我が事のように感じる、真の共感へと繋がる。
もちろん偽善には注意すべき点もある。度が過ぎた自己アピールや他者を欺くような行為は信頼を損ね、かえってネガティブな結果を招く。
でもだからといって偽善そのものの否定には繋がらない。
「偽善者」という言葉はしばしば皮肉や嘲りの意味合いで使われる。しかし私はこの言葉に、ある種の希望を見出している。
なぜなら偽善者は行動しているからだ。行動しない「やらない善」は、どんなに崇高な理想を抱いていようと何の価値も生み出さない。たとえ動機が不純であっても、実際に手を動かし、声を上げ、誰かのために行動する「やる偽善」は確実に何らかの変化を生み出す。その変化の積み重ねが行動する者の心をも変えていく。最初は見せかけの善であったものが、繰り返されるうちに本物へと変わり、やがてその人の一部となる。
偽善は善への入り口なのだ。
聖人君子である必要はない。不完全な動機から始まったとしても行動を起こす。その一歩が自分自身を、そして社会をより良い方向へと導く第一歩となるのである。