YouTubeに動画を投稿し続けていると虚無感に襲われる瞬間がある。
精魂込めて制作し、構図を練り、編集に何十時間も費やした渾身の一本がわずか数百回の再生で沈んでいく。一方で移動中にスマートフォンのカメラで無造作に撮っただけの編集もへったくれもない動画が数日で数万、数十万という再生数を叩き出しているのも目にする。
「なぜこれが伸びるのか」 「あんなに頑張ったものは何だったのか」
解析画面(アナリティクス)を眺め、グラフの起伏を分析しても納得のいく答えが出ることは稀だ。視聴維持率が高いからといって必ずしも拡散されるわけではなく、サムネイルを工夫してもクリックされないときはされない。デジタルという論理の塊のような世界に身を置いていながら、その実態は非論理的で混沌としている。
しかし私は最近この「傾向が掴めない」事実にこそ、最大の希望が隠されているのではないかと考えるようになった。
「正解」を求めた瞬間に自由は死ぬ
アルゴリズムは常に進化しているが、その本質は「人間が次に何を見たいか」を予測することにある。そして、人間の感情は予測不可能だ。
昨日は論理的な解説動画を求めていた人が今日はただ焚き火の音を聞きながらぼーっとしたいかもしれない。あるいは完璧なプロの仕事よりも素人の失敗談に共感したい夜もある。
「再生される傾向が掴めない」というのはアルゴリズムの不具合ではなく、人間の心の揺らぎをそのまま反映している結果なのだ。であれば私たちがすべきことは存在しない「正解の型」に自分を押し込めることではない。
すべての動画が「当たりくじ」である
もし動画のヒットが完全に予測可能であったならこの世界は資本力のある企業や、特定の方程式を知る一部の人間だけに支配されてしまうだろう。しかし現実はそうではない。
路地裏で拾った変な形の石ころのような動画が、地球の裏側の誰かにとっての「宝物」になる。そんな奇跡が日常的に起きている。
再生数が伸びないとき私たちはつい「自分の動画には価値がない」と錯覚しがちだ。だがそれは大きな間違いである。ただ「今、この瞬間の波」に乗らなかっただけであり、その動画の持つポテンシャルが否定されたわけではない。
むしろ傾向が掴めないということは「どんな動画にも、等しくバズる(あるいは誰かの心に刺さる)可能性が残されている」ということの裏返しだ。
今日投稿した自分でも首を傾げるような動画が一年後に突然アルゴリズムに拾い上げられることもある。誰かにとっての「救い」になることもある。デジタルデータは腐らない。ネットの海を漂い続け、いつか適切な誰かの岸辺に流れ着くその日まで可能性は死なない。
予測不能を楽しめるか
私は動画制作を「宝探し」のようなものだと捉え直すことにした。 どれが金鉱に当たるかはわからない。だからこそいろいろな場所を掘ってみる。
「こういう動画がウケるはずだ」という損得勘定だけで作っていると外れた時のダメージが大きく心が摩耗する。しかし「何が起こるかわからないけれど、とりあえず放り投げてみよう」という軽やかさを持てば発信はもっと自由で楽しいものになる。
可能性の種を撒き続ける
結局のところ私にできるのは自分の中にある「表現したい」という衝動を形にすることだけだ。
それが数回しか再生されなくても私の価値は変わらない。 それが何百万回再生されても私の本質は変わらない気がする。
明日、私が投稿する動画が世界を変えるかもしれない。 あるいは誰も観てくれないかもしれない。 その不確かさを楽しんでこそ動画を作り続けることができる。