どれほど時代が進歩し誰もが平等であると謳われようとも、「自由競争」の実態は変わらない。
よほど天運に恵まれなければいわゆる「上級国民」と呼ばれる層に食い込むことはできない。にもかかわらず、その厳しい現実は「自己責任」という冷たい言葉で片付けられてしまう。
どれだけ努力を重ねたところで成功を掴めるのはごく一握りの人間である。それでも「お前の努力が足りない」「全ては自己責任」と突きつけられる。この社会の構造を深く見つめれば、「努力次第」とか「自由競争」とかいうものが欺瞞に満ちた言葉であることは明らかだ。
そもそも、かつては正当な理由なく弱者を虐げることが当たり前だった。しかし人権意識の高まりとともに露骨な差別は許されなくなった。そこで生み出されたのが、「自由競争」という巧妙な幻想である。
誰もが自由に競争できるのだから、貧困も、格差も、そして苦しみも、全ては個人の努力不足による「自己責任」だというロジックがまかり通るようになった。
これは弱者を合法的に搾取し、その行為を正当化するための極めて巧妙な詭弁であると言っても過言ではない。
「他責思考はやめろ」「努力が足りない」「自己責任」。
これらの言葉はあたかも弱者に向けた激励であるかのように聞こえるかもしれない。しかし本質は弱者を貶め、虐げる行為を正当化するための便利なツールに過ぎない。
強者は自分たちが享受する優位性を当然のものとし、弱者の苦しみを個人の問題に還元することで、現在の不均衡な社会構造を温存しようとしている。自由競争という美名の下、弱者は黙って搾取され、その上で「自己責任」という名の呪縛に縛り付けられる。
しかし私は、だからこそ被害者面をやめる。
この不条理な社会を嘆き不満を漏らすことには意味がない。他人を恨み環境のせいにしているだけでは何も変わらないことを知っている。確かに社会は理不尽で不公平だ。しかしその事実を受け入れた上で、私は自分の人生を自分のために全力で生きることを選択する。
ただひたすら自分が望む人生を実現するために私は私自身の力を行使する。
自由競争という名の幻想の中で、多くの人々が苦しみ絶望している。しかしその幻想の枠に囚われている時間はない。