生まれた家柄、親の経済力、育った環境。それらはすべて、私たちが選べないものだ。それらが人生のスタートラインを決定し、その後の人生を大きく左右する。上級国民と呼ばれる人々は生まれながらにして優位な立場にあり、彼らの子供たちは当然のように良い教育を受け、コネクションを築き、良い企業に入り、そしてまた上級国民として生きていく。そのサイクルは盤石で、一部の運の良い人間を除けば、その輪に加わることは至難の業だ。
にもかかわらず、この社会は「自己責任」という言葉を私たちに突きつける。努力が足りない、才能がない、だから成功できないのだと。一握りの成功者がメディアで華々しく取り上げられ、その陰で大半の人々が苦しみ喘いでいる現実には目を向けようとしない。
努力すれば報われる。
そんなものは幻想に過ぎない。成功するのはいつだって一握りの人間だけなのだ。その一握りになれなかった人間はすべて自己責任だと切り捨てられる。
時代は進み、かつてのように身分を理由に公然と弱者を虐げることが許されなくなった。奴隷制度も廃止され、貴族と平民といった明確な身分差もなくなった。しかし人間は弱者を搾取することをやめない。そこで編み出されたのが「自由競争」という巧妙なシステムであると私は考える。
自由なのだから、競争は公平なのだから、結果が伴わないのはお前たちの自己責任だ、と。
努力が足りないのだ。もっと頑張れば報われるのだ。そういった耳触りの良い言葉の裏で、富める者はさらに富み、持たざる者はさらに追い詰められていく。
「他責思考をやめろ」「努力不足だ」「自己責任だ」。
これらの言葉は弱者を虐げ、その搾取を正当化するための便利なツールとして使われている。本来、社会がそのシステムとして抱える不均衡や構造的な問題に起因する苦しみを個人の問題にすり替える。そしてその個人を徹底的に叩き、社会の歪みから目を逸らさせる。自由競争という美名の下、弱者への搾取が公然と行われている。そう言っても過言ではないと私は断言する。
だからこそ、私は逆に被害者面をやめる。この現実を直視した上でなお、己の力不足は己の努力不足によるものと捉える。
社会の不公平を嘆くことも、理不尽な自己責任論に苛まれることもやめよう。
私は私のために生きる。誰かのために頑張るのではなく、ただ私自身の喜びのために私の持てる力を全力で使って毎日をやり切る。
社会の構造は簡単に変えられない。上級国民の盤石な地位を覆すことはできないだろう。しかし私が私自身の人生をどう生きるかは私自身が決めることができる。
自由競争という幻想の鎖から自らを解き放ち、私は今、私の人生の舵を私自身の手で取る。弱者への搾取を正当化するシステムの中で、私は私自身の尊厳を守り、私自身の幸福を追求する。それがこの理不尽な世界で私が見つけた唯一の道である。