その「だるさ」の正体を見極めているか
「今日はなんだか、やる気が出ない」
「なんとなく体がだるいから、明日でいいか」
そうして私たちはたやすく目の前の課題から逃避する。
「どんな時でも休まず働け」という精神論を説きたいわけではない。本当に体調が悪くて体が悲鳴を上げているなら休むのが正解だ。あるいは人生において優先順位の高い「別の何か」を完遂するために、あえて特定の作業で手を抜くという選択もあり得る。リソースは有限であり、すべてに全力投球することは不可能だからだ。
問題は、そのような明確な理由のない「なんとなくのサボり」である。
特に目的もなくSNSのタイムラインをスクロールし続け、気づけば一時間が経過している。やるべきことがあるのに、ベッドに寝転がって天井を眺めているうちに日が暮れる。この「なんとなく」の積み重ねこそが私たちの人生を音もなく崩壊させる。
時間とは「あなた自身」そのものである
時間は人生そのものであり、時間は「自分自身」そのものだ。
私たちの命は生まれた瞬間から死に向かってカウントダウンを続けている。その残り時間の断片こそが「今」という時間だ。時間を無駄にするということは、大げさに言えば自分の命の断片をドブに捨てているのと同義である。
想像してみてほしい。もし目の前で、誰かが自分の大切な持ち物を理由もなく切り刻んでいたとしたら、あなたは「なんてひどいことをするんだ」と憤るだろう。
それと同じで、私たちは「なんとなくサボる」という行為を通じて、自分自身の人生という最も大切な資産を、自らの手で切り刻んでいるのだ。
時間を大事にしない人は、自分を大事にしていない。この事実に私たちはもっと危機感を覚えた方が良い。
「なんとなくサボる」は静かな自傷行為である
私たちが何かを目指すとき、そこには必ず「たどり着きたい場所」があるはずだ。 スキルを身につけたい、経済的な自由を得たい、愛する人を幸せにしたい。
それらの目的を達成するためには、時間の投資が不可欠となる。
それなのに目先の「楽をしたい」「だらだらしたい」という刹那的な快楽に流されてしまう。これは理想の未来を描いている自分に対する裏切りであり、一種の「自傷行為」と言わざるを得ない。
遠回りをすること自体が悪いのではない。目的地があることを知りながら、意味もなく立ち止まり、貴重な時間を腐らせていくその姿勢が、自らの尊厳をじわじわと削り取っていくのだ。
経済力で時間を買い、精神で時間を愛せ
世の中の物事の多くは金で解決できる。時間もある程度は金で買える。
ただ、どれほど大金をつぎ込んで時間を買い戻したとしても、肝心の「時間との向き合い方」が腐っていれば、買った時間は再び「なんとなく」の渦に飲み込まれて消えてしまうだろう。
私たちはもっと自分の時間を愛すべきだ。 一分一秒を「自分の命の一部」として愛おしく感じることができれば、なんとなくサボるという選択肢は自然と消えていくはずだ。
時間を愛することは、自分を抱きしめること
「時間を守る」という言葉があるが、それは単に約束の時間に遅れないことだけを指すのではない。自分との約束を守り、自分の時間を有意義に使い切ることこそが、真の意味での「時間を守る」ということだ。
今日という日は二度と戻ってこない。
自分を大切にするために、自分の時間を愛そう。