私の耳は長年「特殊な音」ばかりを拾い上げてきた。 アニメソング、ゲームミュージック、同人音楽、そしてゲームのBGM。それらは私にとって、単なるBGMではなく魂の安息所である。電子音が織りなす複雑な旋律や、虚構の世界を彩る劇伴に身を浸すとき、私の脳内には心地よいドーパミンが溢れ出す。
しかしふと我に返ると、私の足元には深い断絶が横たわっていることに気づく。私の愛する音楽たちは「世間一般」という大陸から切り離された「孤島」のようなものだった。
共通言語としての音楽の欠落
学生時代であればこの孤島に引きこもっていても何ら問題はなかった。同じ嗜好を持つ仲間とだけ繋がっていれば世界は完結していたからだ。だが就職し社会に放り出されると状況は一変する。
社会において他者との関係構築は避けて通れない。その際潤滑油となるのが「共通言語」だ。昨日のテレビ番組、流行りの映画、スポーツの試合の結果、世間を騒がせている芸能人。そうした情報の断片が初対面の相手との壁を崩すアイスブレイクになる。
ところが私にはその手札が絶望的に欠けている。 自宅にテレビを置かなくなって久しく、芸能人の顔と名前は一致せず、アイドルや俳優のゴシップにも、映画の新作情報にも触れずに生きてきた。TikTokやInstagramは業務上チェックするものの、流れてくる動画に心を動かされることは一切なく、出演者の顔も名前も全く頭に残らない。
さらにオタク知識すら最新の流行からは脱落しつつある。
日々のタスクに追われ最新のアニメやVtubersの動向を追う余裕がなくなり、今やオタク同士の会話にすら付いていくことができない。自宅には最新のゲーム機もなく、世間を賑わす『モンハン』や『ポケモン』の話題にも入れない。
「陽キャの音楽」という未知の領域への接触
というわけで、コミュニケーションの足掛かりとして私が目をつけたものはいくつかあるが、その中に音楽が含まれている。
音楽は通勤中や作業中など、他のタスクと並行して摂取できる「タイパ」の良い趣味だ。 もし世間一般で「陽キャ」と呼ばれる人々が嗜んでいるような、いわゆるメジャーな邦楽やロック、レゲエなどの良さを理解できれば少なくともカラオケでマイクを渡されて立ち往生することもなくなるだろう。
私は意を決してYouTubeのチャートを賑わせているアーティストや、チャンネル登録者数が数百万を超える「売れている」面々の楽曲をスマートフォンのプレイリストに放り込んだ。そしてそれらを日常のBGMとして流し始めた。
しかし結果は散々なものだった。決して、それらの音楽が嫌いというわけではない。
ただ、良さが分からない。
心が踊らない。感情が動かない。ドーパミンが分泌されるあの独特の感覚が一向に訪れないのだ。
オタク脳という名の呪縛と構造
なぜこれほどまでに受け入れられないのか。自問自答を繰り返す中で、一つの仮説に辿り着いた。 私の脳は音楽そのものだけでなく、そこに付随する「文脈」や「過剰な情報量」を喰らう性質を持つのではないか、ということだ。
どういうことかと言うとアニソンやゲームミュージックには、背後にその作品の物語がある。一音聴けばあのキャラクターの表情や、あのシーンの感動がフラッシュバックする。また同人音楽もゲームのBGMに歌詞をつけたものだったりするから、元となった音楽のストーリーも含めてひとつの作品として楽しむことができる。
一方で世間一般で流行している音楽の多くは、もっと「ノリ」や「空気感」、あるいは「等身大の共感」に重きを置いている(ように私には見える)。
というか「陽キャが聴いてそうな曲」などと、あまりにも大雑把で偏見に満ちたカテゴリー分けしかできない時点で私の感性は色々と終わっている。
知識として「このアーティストが人気だ」と知っていても、その真髄を味わうことができなければ、会話は上っ面を滑るだけだ。コアなファンと対面した際、その薄っぺらさは即座に見透かされ、かえって信頼を損なうことにもなりかねない。
脳を作り替えるための「慣らし運転」
それでも私は諦めるわけにはいかない。 「良さが分からない」で済ませてしまえば、私の世界は二度と広がらないからだ。
人間が持つ最強の能力は「慣れ」である。 かつては苦痛だったピーマンやゴーヤの苦味も、繰り返し口にするうちに、いつしか「滋味」として感じられるようになる。音楽も同じはずだ。 今の私の脳は、単に「未知の刺激」を「不快」と誤認しているに過ぎない。
戦略を変えることにした。 いきなり全てのプレイリストを入れ替えるような過激な改革はやめる。そんなことをすれば、音楽を聴くこと自体が苦行になってしまう。 まずはいつものBGMや同人音楽の合間に流行の楽曲を1曲だけ紛れ込ませる。10曲に1曲、5曲に1曲と、徐々にその比率を上げていく。
狙うのは、既存の趣味を捨てることではない。オタク音楽という母港を持ちつつ、外海へと漕ぎ出すための「航海術」を身につけることだ。
越境の先に待つもの
この悪戦苦闘の先に、何があるのかはまだ分からない。 結局受け入れられず諦める可能性もある。
しかし自分の感性を疑い、あえて不自由な環境に身を置くこと自体には価値があると信じている。
「分からないもの」を「分からない」まま切り捨てるのではなく、その良さを理解しようとあがく過程で私の世界は確実に広がっていくはずだ。
音楽の趣味を変える。
いや変えるというか増やす。
それは単に再生リストを更新する作業ではない。 凝り固まった自意識を解きほぐし、他者と繋がる「新しい心」を再構築するための、前向きなトレーニングなのである。