仕事であれ私生活であれ、予期せぬトラブルが起きたとき、私はいつも必要以上に動揺していた。
単なる調整ミス、些細なコミュニケーションの行き違い。客観的に見れば落ち着いて対処すれば数分、長くとも数時間で解決する事柄だ。しかしその瞬間の私はまるで世界の終わりでも迎えたかのように、心臓を激しく波打たせ、顔色を変え、文字通り「右往左往」してしまう。
周りから見れば、私は「非常に責任感が強く、繊細で、物事を重く受け止める人物」に映っていたかもしれない。あるいは単に「プレッシャーに弱い人」と思われていたことだろう。
だが嵐が過ぎ去った後に残る感覚はいつも奇妙なものだった。 喉元を過ぎれば、あの時のパニックが嘘のように思えてくる。
「あんなにビクビクするほどのことではなかったな」という冷めた自覚だ。
それどころか心のどこかで「あの程度のトラブルなら、もっとスマートに、カッコよく立ち回ることもできたはずだ」などという、滑稽な万能感に似た後悔すら抱くことがあった。
私はなぜこれほどまでに必要以上の恐怖を演出し、自分を追い込んでいたのか。 その正体を探るべく自分の内面を深く掘り下げてみたとき、私はある醜悪な事実に突き当たった。
演出された無力感
私が過剰に慌てふためいていたのは単に気が弱いからでも責任感が強いからでもなかった。
それは、「これほどまでに私は困っており、傷ついており、パニックに陥っている」ということを周囲にアピールするための、無意識のパフォーマンスだったのだ。
私はオーバーに狼狽してみせることで、周囲の人間が見かねて手を差し伸べてくれることを期待していたのである。 「大丈夫?」「あとはこっちでやっておくよ」「そんなに自分を責めなくていいよ」 そんな救いの言葉を求めていたのだ。
自分が弱く、無力で、可哀想な存在であることを強調すれば、他者は私を厳しく叱責することができなくなる。それどころか私の代わりに問題を解決してくれるかもしれない。この卑しい期待が私の心臓を必要以上に叩かせ、私の声を震わせていた。
この事実はこれまでのどんな失敗よりも私を惨めな気持ちにさせた。
冷静さを装うという訓練
「助けてもらうのを待つ」という姿勢は一見すると謙虚に見えるが、その実態は「自分の人生のハンドルを他人に丸投げしている」に等しい。 もちろん人間が生きていく上で周囲の助けを借りることは不可欠だ。しかし、それは自らが最善を尽くした上での「協力」であるべきで、パニックを盾にした「依存」であってはならない。
壁にぶつかるたびに誰かが代わりに壊してくれるのを待っていては、いつまで経っても自分で壁をぶち壊す強さを身につけることはできない。
そこで私は、まず一つの具体的なルールを自分に課すことにした。
「どんなに内面が揺れ動いていても、表面上だけでも冷静さを装う」ということだ。
内心で心臓が早鐘を打っていても、あえてゆっくりと深呼吸をする。 震えそうな声を出さないよう、一呼吸置いてから言葉を発する。 大げさな溜息をついたり頭を抱えたりといった「困っていますアピール」の仕草を意識的に封印する。
これは単なる見栄ではない。形から入ることで内面の暴走を食い止める「防波堤」を作る作業だ。 不思議なことに、外見を冷静に保とうと努めると、それに引きずられるようにして思考もクリアになっていく。パニックという霧が晴れた先には、常に「今、自分ができる最善の行動」が転がっていることに気づけるようになった。
自立への第一歩として
オーバーなリアクションを捨てることは、他人が助けてくれるのを待つ受け身な姿勢を封印し、起きた出来事に対して自分で責任を取るということ。
これからは周囲に「なんとかしてもらう」ことを期待して動揺を撒き散らすのはもうやめよう。
助けてほしいなら、自分の口ではっきりと「手を貸してほしい」と言う。
解決のために周囲の知恵や力を借りることはあっても、それはあくまで私自身が主体となって進める解決のプロセスの一部であるべきだ。