この世界にはどうしても相容れない人間が存在する。それは場所を変えても、コミュニティを移っても、あるいは年齢を重ねても変わることのない、一種の自然現象のようなものだ。
無神経な言葉を平然と投げつける知人、あるいはSNSで見知らぬ誰かを攻撃して悦に浸る者などなど、どこに行っても当たり前に「嫌な奴」は現れる。まずはこの現実を冷徹に受け入れるところから始めなくてはならない。彼らがこの世から絶滅することはない。だからこそ私たちは彼らの存在を前提とした上で、いかにして自分の心を守り抜くかを考えなければならないのだ。
理解不能な存在を理解しようとする無駄
私たちが「嫌な奴」に遭遇した際に陥りがちな罠がある。それは「なぜあの人はあんなことをするのだろう?」と相手の心理を分析しようとすることだ。道徳心や共感能力、あるいは論理的な思考を持ち合わせていれば、相手の行動はあまりに異常で不合理に映るだろう。
しかし世の中には他者を傷つけることでしか自尊心を保てない人間や、自分の正義を証明するために誰かを踏み台にする人間が確実に存在する。彼らの脳のつくりは私たちのそれとは根本から異なっている。犬が吠える理由や嵐が吹き荒れる理由を深く考察したところで、その吠え声や暴風を止めることはできない。それと同じで理解不能な人間の行動原理を解き明かそうとする時間は、人生における最大の浪費である。
「理解できない」という事実はそのまま「理解する必要がない」という結論に直結する。
彼らは自分とは異なる言語を話し、異なる宇宙に住む住人なのだと割り切る潔さが精神の平穏を保つ第一歩となる。
呪いの連鎖がもたらす「二重の損失」
嫌な奴に嫌なことをされたとき私たちは激しい怒りを感じる。相手を憎み、その非道を誰かに訴え、不幸になればいいと呪うこともあるだろう。
もしその恨みや愚痴によって相手が目の前から消え去り、あるいは深く反省して謝罪してくるのであれば、いくらでもそうすればいい。
しかし現実は私たちが夜も眠れぬほどに怒り、食事が喉を通らないほどに傷ついていても、当の相手は高笑いをして熟睡している。これが真実である。
相手を憎んでいる間、私たちの脳内はその人物によって支配されている。不快な記憶が何度もフラッシュバックし、せっかくの休日やリラックスした時間が侵食されていく。これは相手から受けた物理的な実害に加え、自分の「時間」と「精神エネルギー」までも相手に差し出している状態、いわば「二重の損失」である。
嫌な奴のために自分の貴重なリソースを割くのは馬鹿らしい。彼らのせいで自分の行動が制限されたり、未来への意欲が削がれたりすることこそが、相手にとっての「勝利」になってしまう。私たちは彼らに一ミリの勝利も与えてはならない。
ストレスの「外部処理」と反面教師化
では沸き上がる怒りやストレスをどう処理すべきか。感情を押し殺す必要はないが、それを相手に向けるのは非効率だ。ストレスは全く別の場所で、自分を癒やすために処理するのが賢明である。
手段は何でもいいが、負のエネルギーを正のエネルギーに変換する回路を自分の中に持っておくことだ。
そして嫌な奴の存在を「サンプル」として活用する手法を提案したい。
彼らが示した醜悪な振る舞いを反面教師として記憶に刻むのだ。そう考えることができれば、不快な経験も自分を磨くための「教材費」として、無理やり納得させることも可能になる。
自分の領域を守り抜く
嫌な奴はどこにでもいる。それは変えられない前提条件だ。しかし彼らが自分の心の中に土足で踏み込んでくることを許すかどうかは、自分自身で決めることができる。
自分の心の庭に毒を撒き散らすような人間を招き入れてはいけない。境界線をしっかりと引き、もし踏み越えてくる者がいれば、感情的にならずに事務的に対処し、心は別の安全な場所へ避難させるのだ。
人生は嫌な奴に構っているほど長くはない。私たちが愛すべき人々、大切にすべき目標、そして自分自身の静かな時間。そうしたもののためにエネルギーを使うべきである。
傷つく必要はない。なぜならその痛みはあなた自身の欠陥ではなく、単に「そこにある障害物」にぶつかっただけの現象に過ぎないからだ。立ち止まらず、埃を払うようにその不快感を振り落とし、あなたはあなたの道を進めばいい。嫌な奴がどれだけ騒ごうと、あなたの人生の主権は常にあなた自身の手にある。