恵まれた環境で成果を出すのは至極当然のことだ。最新の機材、潤沢な予算、優秀な指導者、そして整えられたシステム。これらが揃った場所で期待通りの結果を出すことは舗装された直線の高速道路を高性能なスポーツカーで走るようなもので、必要なのはアクセルを踏み続ける最低限の意思と行動だけだ。
私たちの生活はどうかといえば、何に挑戦するにしてもそんな恵まれた環境なんて用意されていなくて、あれもなければこれもない、不足ばかりの環境に置かれている。リソースが足りない、時間がない、周囲の理解が得られない。
しかし、そうした逆境の中でも最後までやり切る人間もいる。
整備された道には「問い」がない
良い環境に身を置くと人は思考を停止させがちになる。すべてが準備されているということは自分でどうすればいいか必死に考える必要がない。与えられたマニュアルに従い、用意されたツールを使えば、ある程度の地点までは自動的に運ばれる。
しかし不足だらけの環境は、私たちに絶え間ない問いを突きつけてくる。 「金が足りない、どうすればいいか」 「道具が足りない、今あるもので代用できないか」 「味方がいない、一人でどうやって闘うか」
この「どうすればいいか」という問いの連続が成長につながる。何もかも不足している日常の中で本気で藻掻く経験は、人生を力強く生き抜くための強さの獲得に繋がる。
制約が地力を生む
ずっと不足している環境に身を置く必要はないと思う。というか、私もそんなのは嫌だ。
しかし「充実した環境」を手に入れるためには、なにもかも不足している環境の中で諦めず闘い続けるフェーズを避けることができない。というか私自身が今まさにそのフェーズにいる。
ぶっちゃけ辛い。相当しんどい。
でも心のどこかでは、全てが足りない状況で藻掻くのを楽しんでもいる。
なぜならこの経験は必ず将来の自分の糧になるし、この辛さは成長痛に過ぎず、自分を根本から破壊するものではないと知っているからだ。
制約の日々が私の地力を育んでいる。
環境のせいにして投げ出すのは簡単だ。「もっと予算があれば」「もっと理解があれば」と言い訳を用意するのは誰にでもできる。しかし環境を理由に諦めた瞬間成長は止まる。これからもまた同じように環境を言い訳にする逃げ癖がついてしまう。
一方で、不足ばかりの環境で、泥臭く、執念深く、最後の一歩までやり切った経験は、揺るぎない「自己肯定感」に変わる。
私は自己肯定感が冷え切っているから、ずっと揺るぎない自己肯定感を求めて生きてきた。昔から求めてきたブツを手に入れるには今歩んでいるしんどい道を進むしかない。
もし今「自分は恵まれていない」「もっと良い環境があれば」と感じているなら、それは絶好の成長機会の中にいる。
整った環境は待っていてもやってこない。自分で掴みに行く必要がある。
それに今は何もかも不足しているけど、何一つ持っていなわけではない。今あるものを最大限活用して成果を得ることを続けた先に、理想の自分とか生活とか環境とか、そういうものが待っていると信じる。
努力が必ず実るとは限らない。でも、実ると信じる。自分だけは自分の可能性を信じることにも大きな価値がある。
足りないことを嘆くのはもう終わりにしよう。不足を楽しみ、制約を遊び、逆境を食らい尽くす。そうして最後までやり切ったとき、私たちは別人のように生まれ変わっているはずだ。
環境に生かされるのではなく、環境を乗りこなす人間になる。そのために必要なものは、やると決めたことをやり切る姿勢と意志だけである。