世の中には自分を応援してくれる人々ばかりいるわけじゃない。というか、むしろ大半は否定から入ってくると私は考えている。新しい試みを始めようとすれば必ずと言っていいほど「そんなの無理だ」「失敗するに決まっている」といった声が聞こえてくる。友人や家族でさえ良かれと思って否定的な意見を投げかけてくることがあるのだ。
なぜ世の中はこれほどまでに否定から入るのだろうか。
まあ、否定されること自体は必ずしも悪いことばかりではないと私は思う。時に自分の考えの甘さや見落としていたリスクに気づかせてくれる貴重な機会にもなる。批判的な意見に耳を傾け、冷静に分析することで、より良いものへと昇華させることも可能だ。
問題はその否定が単なる感情的なものであったり、あるいは何も考えずに放たれる無責任な言葉であったりする場合だ。
そのような否定は時に人の心を深くえぐり、行動する意欲そのものを奪い去ってしまう。
それでも、ボロカスに言われるのは仕方ない。ある意味それがデフォだ。
否定されても、本当にやりたいと思えるかどうか。この問いこそが、私が何かを続ける上での最も重要な判断軸である。
かつて私は人からの評価や期待に縛られ、自分の本当の気持ちが見えなくなっていた。今でも見えなくなることがある。周りから期待されている通りの自分を演じ、それが本来の自分であるかのように振る舞っていた。しかしそのような生き方は常に心のどこかに違和感を抱かせ、やがては大きな疲弊となって襲ってくる。
だから私は「何を言われてもやりたいと思えるか」という基準を大切にするようになった。もちろん全ての否定的な意見を無視するわけではない。建設的な批判には真摯に耳を傾け改善に努める。しかし、その上で、どうしても譲れない、心からやりたいと思えることであれば、どんなに否定されても私はその道を歩み続けることを選ぶ。
例えば禁欲だってその一つだ。ポルノを観ないとか自慰行為をしないとか、普通の男性は絶対できないし、やりたいとも思わないことに挑戦している。
もし、あなたが今、誰かの否定的な言葉によって立ち止まっているのなら、一度自分自身に問いかけてみてほしい。
「世の中の大半は自分を否定してくる、それでも本当にやりたいと思えるだろうか?」と。
もし、その問いに「はい」と即答できるのであれば、あなたはきっとその道を歩み続けることができるだろう。
そして、もし「いいえ」と答えるのであれば、それは本当にやりたいことではないのかもしれない。
人生は一度きりで、時間は有限だ。他者の価値観に振り回され、自分の本当にやりたいことを見失ってしまうのは勿体ない。
どんなにボロカスに言われようと、どんなに嘲笑されようと、自分の心の奥底にある情熱が消えない限り、私は歩み続けるだろう。世の中の否定を越えて、それでも自分の道を歩むのだ。