忙しい人はここだけ読めばOK
- 自己肯定感とは「自信の有無」であり、自信とは「自分との信頼関係」。
- 自分だけは常に自分の味方でいる必要性を認識する。
- 他人に対してだけでなく、自分への発言にも責任を持つ(健全な自責思考)。
メンタルの強さと自己肯定感
自己肯定感を高める目的
そもそも私たちはなぜ自己肯定感を高めたいのだろうか。多くの場合は強いメンタルを獲得し、メンヘラから脱却したいからではないだろうか。
少々のことでは動じることなく日々を快適に過ごしたい。もっと言えば、細かいことを気にして自分を責めたりせず、幸せに生きたいからである。
メンタルが強い=自己肯定感が高い=自分で自分を信頼している
私が思うに、メンタルの強さとは自己肯定感の高さとイコールである。
常に明るく落ち込まず、何か問題が発生しても「痺れるねー」とか言いながらサクッと解決する。そのような「強い人」あるいは「できる人」は、見るからに自己肯定感が高い。
「仕事ができるから自己肯定感が高いのでは」と思う人もいるかもしれないが、たぶん逆である。
自己肯定感が高いから仕事ができる(ように見える)のだ。
そして自己肯定感とは、自分との関係の良さだと思う。 自分とどれだけ仲良しか、自分をどれだけ信頼しているか。つまり自信があるかどうかだ。
ゆえに「自己肯定感を高める」とは「自分との関係を適切に構築・修復し、自分と仲良くなる作業」と定義できるのではないだろうか。
私が見るに、メンタルが強く心を病まない人は、この作業を言語化せずとも無意識下に行っているように感じる。ある種の才能である。
それができない私のような人種は、頭の中で自我を擬人化し、いわば”もう一人の自分”とでも言うべき存在と仲直りするイメージで意識的に行う必要がある。
例えば自己肯定感が低い人は、これまで自分で自分を以下のように罵倒してきたのではないだろうか。
「お前(自分)はクズだ」「お前(自分)は社会のゴミだ」「お前(自分)は人間を名乗るのもおこがましい」etc… 果たしてその内容に具体性・根拠はあるだろうか。それを言う必要性はあるだろうか。……ないのではないか。
それではパワハラに当たるので自分に「ごめんなさい」しよう。まずはそこからである。
このように自己肯定感が低い人は、何かにつけて自分で自分にパワハラしているのだ。そして放っておくと他人にもやり始める。身近にそんな例はないだろうか。自己肯定感が低いから他人にキツく当たる(ように見える)人はいないだろうか。ひょっとして自分がそうなっていたりして。
かくいう私も自分で自分にパワハラ発言を繰り返してきた。
例えば何らかの書類で自身の性別を記入するとする。私の場合「男性」と書くが、その際にもう一人の自分が「お前(私)が男だと? お前(私)が男を自称していいのか? 全世界の男性に失礼だと思わないのか。死んで詫びろや」などと言ってくるわけである。
毎日毎日こんな感じなので精神は摩耗し、自己肯定感が上がるはずもなく、自殺を意識しない日なんて1日もなかった。
成人後は仕事のストレスも相まって、精神科に通う日々が始まる。
精神的に健康な人からすれば「頭大丈夫?」と言いたいところかもしれないが、自己肯定感が極限まで低く、”自分と自分”の関係値が絶対零度まで冷え込んでいる人間の現実である。「人間の現実」と書いたが、今では私が人間だと言えるようになった。かつては私が人間だというのも、他の全人類に失礼だと思い込んでいたのだ。
自分で自分にパワハラするきっかけは他者からの抑圧(外的要因)
そもそもなぜ自分にパワハラをするようになったのか。正直これは周囲からの影響によるところが大きいと思う。
周囲から否定される経験を重ねると、無意識のうちに「自分は劣っている」という認識が根付いてくる。その認識には明確な根拠がないにも関わらず、「周囲から言われているから」というだけで「ああ、私はダメなんだ」と思い込んでしまうわけだ。
素直で感受性が強く、良い人・良い子ほどそうなりがちだと思う。特別いい人でなくても周りから何度も繰り返し罵倒され続ければ、やがて疲弊し病んでいくだろう。
ちなみに今こう書いている時も、もう一人の自分は「他人のせいにするな、お前がカスだからだろう」と言いたくて仕方ないようだ。それでもあえて言おう。他人のせいであると。次の章で述べるが、適度に他人のせいだと考えること(他責思考)も必要である。
さて、私は学生時代死ぬほど勉強ができなかった。特に中学~高校。文系科目は比較的できたが理数系は壊滅的で、数学の試験で16点なんてこともあった(※100点満点である)。 これに関しては私の責任もあるだろう。
さて私の出来の悪さに教師たちは呆れ果て、担任に「カス」呼ばわりされたこともあった。両親も半ば鬱気味になっていたように思う。特に母親などは、私が小学生の頃から若干おかしくなっていた。目の前で勉強をさせ、私がミスをすると金切り声を上げながら頭を引っ叩いてきたりした。
そんな中でも特に強烈だった言葉は未だにフラッシュバックする。
母は言った。「お前は、確かに優しい子だよ。でもね、それだけ。他に何もない。勉強もダメ、運動もダメ。あんたには何があるの?」
父は言った。「今から100円ずつでも貯金しておけ。将来〇〇(次男・弟)に迷惑をかけるな。その頃には、あいつには家族がいるかもしれないんだ」
確かに私は理数系の出来が悪かった。だが、実の親がそこまで言うのか。大人になった今なら同じことを言われても気にしないだろう。しかし当時は何も知らない少年である。思春期の多感な年頃だ。私が大人になったからこそ分かるが、これは親として以前に大人として、人として、絶対に子供に言ってはならないことである。
他にも嫌な記憶は多々あるが、この言葉が決定打となり、自分を否定し続けるマインドが身についた可能性が高いと思っている。最も思い出し、苦しむ頻度が高かったからだ。
あと、最近のことは忘れてしまうのに、昔のことの方がよく覚えているということはないだろうか。私の場合は自分が言われたことだけでなく、他人への失言も覚えていて、未だに申し訳なく思うこともある。
話を戻すが、子供の頃の経験は多かれ少なかれ人のメンタルに影響する。 日頃忘れている嫌な記憶が突然蘇り、その度に「あああああああああああああ!!!! ごめんなさい!!!! ごめんなさい!!!! ごめんなさい!!!!」と1人で絶叫していた時期もあった。1人で突然叫び出すので傍から見たら狂人だろう。周囲の人には申し訳なかった。
さて、散々将来を危ぶまれた私だが現実はどうだろうか。べつに普通だ。自分の出来の悪さに苦しむことは多々あるけど、普通に自立して普通に食っている。というか、男一人食っていくだけならいくらでもやりようはある。大人たちの発言に何ら根拠がなかったことは明らかである。
「子供の頃に理数系の出来が悪かった」。言ってみればそれだけだ。何か問題でもあるだろうか? あなたには関係ない(と大人になった今なら言える)。
それが分かってもフラッシュバックは止まらないが、この考え方を獲得したことで受け止め方が上手くなり、叫んだり暴れたりしていた頃ほどのダメージは受けなくなったと思う。
自分で自分を追い込みがちな人は、過去に誰かから言われたことを自分で自分にリピートし続けていないだろうか。
やがて他人からの受け売りをリピートするだけでなく、自分で自分への新しい悪口を生産するようになってしまう。
さらに時間が経つと、どれが他人から言われた悪口で、どれが自分で生み出した悪口だったかといった区別まで曖昧になってくるのだ。
「自分に厳しい」=「良いこと」とは限らない
過去に他人から言われたことを反復し、自分を自分で追い込み続ける。見方によっては「自分に厳しい」と言えるかもしれない。
「自分に勝つ」「自分と戦う」「自分に厳しく」。 よく聞くフレーズだが、具体的に何をどうすれば正しいかは誰も教えてくれない。そのため私のように闇雲に自分をぶん殴り続ける人もいる。トレーニングとしても全く効果的ではない。
まずはそれを止めてみるのも大切である。
たまに「いや、私は自分に厳しくなんかないです。この前も……」とか「いやいや私は自分に勝てるほど凄い人間じゃないです」とか言う人がいる。私もそうだった。
でもここで理解すべきなのは「自分に厳しく接していること」が必ずしも「良いこと」ではないということだ。
自分に厳しく接しているばかりにストレスをため込んで、仕事に集中できなくなったり他人にキツく当たるようになったら本末転倒である。
「あなたは自分に厳しい人ですね」と言われたら、ひょっとすると褒め言葉ではないかもしれない。改善すべきだと指摘されている可能性もある。
飴と鞭とはよく言ったもので、ひたすら鞭を打っているだけでは何の成果も成長も得られない。それは自分に対しても同じである。
自分への歩み寄り方と、本当に必要な「自責思考」
それでは散々パワハラしてきた「自分」に歩み寄り、仲直りするにはどうすれば良いだろうか。 正しい「自分への厳しさ」って何だろう。どうすれば自分と、健全かつ適切に向き合うことができるのか。 こればかりは、絶対の正解はないと思う。自分で必死に考えて、自分だけの「自分との向き合い方」を探してみよう。 参考までに、この記事では私が考えたことを書いておく。
私が考える自分に歩み寄る方法として先ほどチラッと言ったが、いわゆる「自責思考」を手放すというものがある。
兄弟が悪い、親が悪い、上司が悪い、会社が悪い、社会が悪い、国が悪い……そうやって責任転嫁する自分を認識した上で、意識的に許すのだ。
「他人のせいにしても良い。お前(私)のせいじゃない」 そう言ってくれる人が身近にいたら、一発で恋に落ちる気がしないだろうか(笑)。
そもそも自責思考が良しとされるのは、そういう人材が経営者・資本家にとって都合が良いからではないだろうか。日本は資本主義である。資本主義とは読んで字のごとく、資本家・金持ちが快適に暮らす仕組みが定着している社会だ。自責思考を良しとするのは、その仕組みの一部に過ぎないように思う。
では、自分の人生に有益な自責思考とは何か。
私はこうだと思う。「私だけは私を許す。そして、許した責任も取ろう」。
つまり、他人に対してだけでなく自分への発言にも責任を持つということだ。それこそが本当に必要な自責思考だと思う。
配偶者だろうが恋人だろうが、我が子だろうが親だろうが何だろうが、他人である以上自分を切り捨てるかもしれない。でも、他ならぬ自分だけは死ぬまでずっと一緒である。そんな唯一無二の相棒である”自分”まで自分を責めるなら、他に誰が許してくれるだろうか。
だから私だけは私を許すし、自分で自分を許したことで何が起きても責任を取る。自分を叱り続けるだけが強さじゃなく、自分を許せることも強さなのだ。
自分の度量が狭いと、他人だけでなく自分を許すこともできなくなる。他人にも自分にもキツく当たり、他人からも自分からも嫌われていく。だからまずは自分を許すことが必要なのだ。 悪名高い「完璧主義」も少しずつ手放そう。難しいことはなくて、自分の汚点・失態(だと感じること)の中で、許せるところを見つけて許すだけである。
自分を許す一例
「筋トレサボっちゃった? いいんじゃないたまには! でも明日ランニング5km追加な。亀みたいなペースでも良いから走れ」 このように「じゃあどうするか」といったネクストアクションまで添えて、自分に語りかけることが大切である。
あくまで私にとっては、ということだが。
まとめ
ここまで記載したような「自分への歩み寄り」や「自分とのすり合わせ」などの積み重ねで、自分も自分に心を開くはずだ。
そうやって自分との信頼関係を築いて自分の言葉に耳を傾けられるようになるのが「自信」である。指摘だけネチネチしてくる奴の話なんて聞きたくもないが、それは自分VS自分でも同じことだ。
「お前なんなの? 今すぐ死ねよ」と中身のない罵倒ではなく、具体的に何が問題なのか、どうしたらいいのかを一緒に考えて、1つ叱ったら2つ褒めて、やる気にさせて、最終的な結果まで責任を持つのが相手(自分)に必要な「厳しさ」であり「優しさ」である。
この2つをもって自分に接し続けることで、自分との信頼関係(すなわち自信)を構築する。
これまで散々罵倒してきた相手(自分)との関係を修復するのは容易じゃないので、長い時間がかかってもいい。失敗してもいい。そう思って少しずつ取り組む。
他人のためにそこまでやるのは難しいが、他ならぬ自分のためならやっても良いと思えないだろうか。
やることは1つだけ。自分に対しても根拠・説得力のある発言を心がけること。
他人に対してだけでなく、自分への発言にも責任を持つ。
自分にとって最高の相棒は”自分”であると思えるよう努力するのが自己肯定感を高めることに繋がるのではないかなと思う。
ここまで読んでくれて、ありがとう。