多くの人々が、純粋な心から発する崇高な行いを善とみなし価値を見出す。しかし行動を伴わない善は、どんなに美しい理想を抱いていようと、この世界に何の価値も生み出さない。
たとえ動機が不純であっても実際に手を動かす「やる偽善」は確実に何らかの変化を生み出す力を持っている。
行動なき「やらない善」の無力さ
世の中には「もっとこうあるべきだ」「こういう社会が理想だ」と口にする人々が溢れている。彼らはしばしば自身の理想を語ることに陶酔し、その高潔さに満足しているように見える。彼らの頭の中には完璧な世界が描かれているのかもしれない。貧困のない社会、差別のない世界、環境に優しい暮らし。しかし彼らは一歩も動かない。寄付もせず、ボランティアにも参加せず、声を上げることもない。ひたすら自身の内なる理想を温め続ける。
こんなものは誰かの役に立つことも誰かを救うこともない。
「やる偽善」がもたらす変化
「やる偽善」とはどうだろうか。動機は不純かもしれない。名声が欲しい、見返りを期待している、世間体が良い。
しかし彼らの行動はわずかであっても確実に現実世界に影響を与える。結果として物事が良い方向へと向かうのであれば、動機がどうあれ、それは「善」と呼んで差し支えないのではあるまいか。
偽善は善への入り口である
誰もが聖人君子ではない。私利私欲を持つ人間であり、時に過ちを犯す。だからこそ最初から完璧な動機で行動しようとすることは、かえって行動を妨げる。
最初は「人からよく思われたい」という動機でボランティア活動に参加したとする。しかし活動を続けるうちに、困っている人の笑顔を間近で見たり、感謝の言葉を直接聞いたりすることで、純粋な喜びや達成感を感じるようになるかもしれない。その経験を通して真に他者を助けたいという気持ちが芽生えてくることは少なくない。
不完全でもいいから行動し、失敗しても続ける
真の善に辿り着く唯一の道は不完全でもいいから行動し、失敗しても続けることである。最初から完璧な行動を目指す必要はない。
たとえそれが「偽善」から始まったとしても、世界を少しずつ良い方向に変えていく力を持っていることは間違いない。
聖人君子になる必要はない。不完全なままで手を動かし行動することこそが、この世界に真の価値をもたらす唯一の道である。