世の中には人の行動を批判する言葉が溢れている。誰かのためになる行動や、社会貢献を思わせる行動が批判されることもある。しかしそれが点数稼ぎだろうが、偽善だろうが、大いに結構ではないだろうか。なぜなら世の中には、その点数稼ぎすらしない人間ばかりだからだ。
やらない善よりやる偽善
「やらない善よりやる偽善」という言葉がある。行動しない善人よりも、動機が不純でも実際に行動する偽善者の方が良いという意味である。私はこの言葉を支持する。
例えば地域のごみ拾い活動に参加する人々がいたとしよう。彼らが「ボランティア活動に参加している自分」という事実から自己肯定感を得たい、あるいは他者からの評価に繋げたいという、ある意味では不純とも思える動機を持っていたとしても、結果として街はきれいになる。誰にも迷惑はかけていないし、むしろ良いことだ。
一方どんなに「街をきれいにしたい」という純粋な思いを抱いていても、実際には行動を起こさなければ、その思いが街の美化に繋がることはない。
偽善も100万回繰り返せば本物になる
「偽善」とレッテルを貼られた行動でも100万回繰り返せば、それはもはや本物の善行だろう。人間は何かを繰り返すうちに、初めは上手にできなくても徐々に習慣となって、やがて自分の一部となる。
最初は「誰かに良く見られたい」という気持ちで始めたボランティア活動だって回数を重ねるうちに、実際に困っている人の笑顔に触れたり、達成感を味わったりすることで、純粋な喜びや使命感へ変化していくこともある。初めは外発的な動機であったものが内発的な動機へと昇華される。
お金持ちの寄付もそうではないだろうか。最初は「節税になるから」みたいな理由で始めたのかもしれないが、継続するうちに社会貢献への意識が本物になることもあるだろう。
違和感がなくなるまでやればいい
重要なのは継続である。最初は「点数稼ぎ」や「偽善」だと自分を責める気持ちがあっても、続けていれば、やがて当たり前の行動となる。
朝の歯磨きや夜の入浴と同じように、意識することなく自然と体が動くようになる。そこまで到達すれば誰も「偽善者」とは呼ばないだろう。自分でも自分の行動に何の違和感も抱かなくなるはずだ。
まとめ
世の中には「行動しない正義」を振りかざし、行動する人々を批判することで優越感に浸る者がいる。しかしそのような批判は、何の生産性も生み出さない。むしろ行動の芽を摘んでしまう可能性すらある。
私たちは他者の動機を探ることより、その行動によってもたらされる結果に目を向けるべきではないだろうか。
そしてもし自分自身が「点数稼ぎ」や「偽善」だと自覚しながらも、誰かのためになる行動をしようとしているのであれば、堂々とその行動を続けるほうが良い。
点数稼ぎでもいい。偽善でもいい。大切なのは行動すること。その行動を習慣化し、本物の善行へと昇華させる。世の中には点数稼ぎすらしない人間が大半なのだから、動いているだけでも立派なものだ。